朝鮮の陶工 李參平
九州肥前国(佐賀県)には、豊臣秀吉が朝鮮出兵の折に、総指揮に当り、本陣を置いた名護屋城跡があります。秀吉の命によって、名護屋から諸大名と共 に朝鮮に出征した佐賀藩主鍋島直茂(1538年~1618年)は、各地に転戦、文禄 3年(1594年)に多数の朝鮮の人々を伴い帰還しました。
この中に「李參平」という陶工がいて、優れた技術をもつことから領主の保 護奨励をうけ、焼き物の製作に精進していましたが、母国朝鮮でできる白磁器 がこの土地で作れないものかと努力を重ねた末、佐賀県有田でまずその砿石の 山(泉山)を発見しました。
その後、「李參平」は一族を指揮して、白磁器の創製に没頭し、ついに従来 の粗陶器とは比較にならない純白透明、清潔繊細、その上に正確美麗な絵付さ れた画期的な焼き物を産み出しました。
李參平と鍋島藩窯
日本での磁器の原点は、この「李參平」と彼の一族によって作られました。この焼物史上歴史的なことは、佐賀県を磁器の発祥の地とし、その後県内で 「鍋島焼」「柿右衛門焼」「伊万里焼」と特色をもった焼き物の様式として確立されていきました。
その後、江戸陶芸文化の中心として、磁器の原流の地として、国の内外に大きな影響を与え続けました。佐賀県、鍋島藩は中国明朝の景徳鎮官窯制度にならって鍋島藩窯を創設しました。
鍋島藩窯の歴史と運営
鍋島藩窯は江戸時代の初期、寛水5年(1628年)佐賀鍋島藩の直営事業として創業され、明治4年(1871年)の廃藩に至るまでの250年間、藩の重要を御用産業として色鍋島をはじめ、染め付け、青磁などの磁器の名品、優品を焼き 続けました。
その製品は朝廷や将軍家への献上品、諸大名への贈答品および藩 の御用品のみを生産し、民間への流出は厳重に禁止されました(注・藩窯は官 窯で有り、民窯の柿右衛門、古伊万里などとは異なる)。
藩窯の製品のうち、特に、色鍋島は世界における色絵磁器の中でも最も品位 があり、意匠、図柄においても優秀な美術品であり、花器、皿、置物から、盃、 ちょこまで他の追随を許さないところです。
藩窯の職制は御道具山と呼ばれる本細工所がありました、これに藩から派遣 された御陶器方が監督者になり、御細工人と称する細工方が11人、画工9人、 捻り細工4人、下働き7人の合計31人から構成され、そして全員が藩窯の技術 秘密保持のため構内に居住していました。
この人員構成は延宝3年(1675年) 大川内山の地に開窯後、明治まで200余年間変わらず、陶工たちは藩から年米 360石、金子千両を支給され、更に苗字帯刀を許された士分格とされ、全ての 公課、苦役を免ぜられた手厚い保護と待遇を与えられた。
その反面、年間に定 められた数量の品物を生産して藩に納めることが義務づけられていました。御 細工人は技量が低下すると罷免されることもあるので、常に自分の技術の練磨 と向上に務めたのは言うまでもありません。
また有田一帯の民窯の中から優秀 な陶工の抜擢登用の制度もあったので、民窯の陶工たちには御道具山の御細工 人になることが大きな夢となっていました。
鍋島藩窯の製品が格調高く優美かつ典雅さを備えた超一級品となったのは、 こうした陶工たちの技術ばかりでなく、代々の鍋島藩主が大きな力と並々なら ぬ熱意を注いだ結果です。更には藩が製品に欠かせない白磁砿石、粕薬原料、 窯道具、薪材などの諸材料を十分に厳選したからでもあります。
こうした藩窯 は江戸時代を通じて他には見られない卓抜した制度でした。